butterfly・stroke inc.

青木克憲の考え方

Chapter 8

まとまったものは魅力がない、何か破綻させたものの方が魅力的で人を引きつける

谷田一郎氏とともに、ラフォーレグランバザール/サントリーカクテルバーを手がけたのもこの頃です。この頃は、受け手の感覚によって、好きか嫌いがはっきり出るような企画やアイデアの方が、確実に効果的だと考えるようになりました。人が『嫌だ』とか、『どうなんだろう』と思うことをかっこ良く見せ、価値観を変えることができれば、最高にいい結果が出るとも考えていました。

ディレクションの仕事が増え、毎週、提案(プレゼンテーション)するぐらいの忙しさになると、外部のスタッフと組んで進める仕事が多くなり、必然的に会社内では単独行動することになっていきました。新しい表現で面白いものがないか、いろいろと探している中で、のちにヴィーナスフォートで仕事をしたパリのカゼム氏(作家)にも会いに行ったりし、自分の主観を信じて行動していました。また、ナイキの仕事を受注する為にポートランドまで自主的に提案にいったこともありました。

しかし、平成になり、不況が続いていたせいで、広告の表現はどんどん保守的になっていきました。目新しいものよりも、カタログ的なもの(まとまった普通のもの)が求められるようになり、表現もだんだんつまらないと思うものが増えていきました。その方向とは逆に、ネット中心に情報が氾濫し始め、消費者自身が求めるものが多様化していきました。こうなったことで、出稿する側と受け取る側とに大きな開きが生まれ始めていると、僕は考えるようになりました。

ヴィジュアルで突出し、かつ破綻していながらも、広告主の要望を満たすものとして、まとまっているが面白く見せられるものがないか。そんな無理難題に対する答えを探す日々が続いていたなかで、寄藤文平氏に出逢ったのです。彼の、絵解きをすることで説明する手法に共感し、それ以来、彼に仕事を依頼することが急激に増えました。絵解きで見せる新たな表現の形が、広告主に受け入れられると思ったのです。

ディレクションが仕事の中心になってからは、寄藤氏に限らず、一緒に仕事をする人を限定するようになってきました。何度もいろいろな仕事を積み重ねていくことで、お互いの理解やクリエイティブの質を高めることが出来たからです。また理解し合うことで、素早く作業を進められるのも良いと思いました。

同世代の人たちが独立していくのを横目で見て、自分も独立を意識するようになり、サン・アド入社から10年で独立し、バタフライ・ストローク・株式會社を設立しました。

サン・アドを離れ、今までの広告主から外れることになり、キリンラガービール、キリン生茶、ジェイフォン(現ソフトバンク)、資生堂化粧惑星、トヨタなど、それまでは競合に当たっていた会社の仕事をするようになりました。宇多田ヒカルさんのジャケットを2年間ほど担当したり、ほぼ日刊イトイ新聞やインターネット博覧会の立ち上がりに関ったことも面白い経験でした。

村上隆氏などのグラフィックの手伝いもし、その際に作品をデジタルのデータでもらい、それをグラフィック用に加工して再構築していく手法を通して、デジタル時代の面白さや良さを感じました。異業種のクリエイターともソフトによって互換性が出来る。今では当たり前のことが新鮮でした。