butterfly・stroke inc.

青木克憲の考え方

Chapter 5

はじめの目標は、グラフィックデザイン業界の大先輩

さて、ここからは、迷い、つまずきながら、グラフィックデザイナーとして社会に踏み出した僕が、どういう道程を辿って、今の僕に至ったのかを率直にお話ししたいと思います。

正直に言えば、僕も、はじめから明解な目標を持っていたわけではありません。僕の実家は日本橋と神田の間にあり、周囲には昭和初期のモダンな建築があふれているという環境で育ったのですが、その影響で建築や空間に魅力を感じ、高校時代は空間やインテリアの仕事をしたいと思っていました。ところが、実際は、その実現のために考え、行動していたわけでは全然なく、むしろ部活動に明け暮れ、建築や空間に対する憧れは、憧れ以上にはなりませんでした。

結局、浪人して美大を目指すことになりました。ところが実際に授業を受けるとデッサンが苦手で絵が描けない。それを補うために、自分で描かなくても、表現したいもの・好きなものを集めることで解決できるコラージュという手法に夢中になりました。この手法に夢中になって取り組んだことは、いま思い返すと「構成=デザイン」「表現したいものや好きなものを集める=ディレクション」に近かったのかもしれません。

結果的に、予備校で平面構成を褒められ、建築や空間に憧れていたはずの僕は、いとも簡単にグラフィックデザインに転換したのですが、当時はアートとデザインの区別もつかないで闇雲に進んでいただけでした。

行き当たりばったりだった僕の転機になったのは、仲條正義氏の事務所でのアルバイト経験でした。デザイン界のトップランナーとして活躍していた仲條正義氏の仕事を、ごく近くで見ることができたことは、何にも増して僕の栄養になりました。仲條正義氏の制作したロゴマークが、パッケージや包装紙や看板、広告など、あらゆるものに展開され、落とし込まれたものがさらに複製され、世の中に広まって行くのを見て、『これこそがデザインだ』と改めて感じて、強くグラフィックデザインに興味を持つようになったのです。

専門誌や先輩デザイナーの話を聞いて、グラフィックデザインといってもいろいろなカテゴリーがあること、広告業界がグラフィックデザインの中でも花形であることも初めて知り、仲條正義氏をはじめ、憧れのデザイナーやディレクターの方も増えていきました。

誰かに憧れたり、何かを漠然とでも好きになって、自分もそこに近づくためにはどうするのかを考えて、その実現のために行動し始めるようになってからは、とても毎日が楽しく面白いと感じました。漠然としていた目標を、僕は憧れた人と接することで明解にできたのだと思います。それが自分にとって、わかりやすかったし、またその方々を身近に感じることができる環境に身を置けたことがとても良かったのです。この自分の目標を持つことが、自分の方向性を定めるのにとても大切なことだと思います。

自分の得意な表現技術を極めること

その後、縁あってサン・アドに入社しました。1989年、バブル全盛のアナログ時代です。仕事内容は先輩ディレクターのアシスタントが、8〜9割。しかし景気が良かったので、仕事は先輩ディレクターがこなしきれないほどあり、先輩に見てもらいながらも自分が担当といえる仕事も与えられました。

自分が担当する仕事では、最高の表現を考えようと思い、担当する商品の過去の宣伝の流れや競合の表現などを参考にして、求められているものを模索する日が続きました。とはいえ、いろいろな表現の方向性に惑わされて、自分の得意な表現も身につけないままに闇雲に努力したところで、良い結果は生まれないものです。当時、僕が作っていたものは、料理教室の生徒がつくる料理のようなものだったと思います。表面上の見栄えはそこそこよく出来ていても、味は普通で、これといった新しさも何もない。うまくいってもレシピ通りの普通のものでは、なかなか良いと認められることはありません。デザインの公募展にも良く出していましたが、ほとんど入選はしませんでした。

そんな中、学生時代の作品が認められ個展を開く機会が与えられました。当時、僕は印刷の表現に興味があったので、大きいポスターなどを作りたいといった表面上のことばかり考えていました。しかしテーマなしでは展覧会にはなりにくいと感じて、統一した企画はなかったものの、表現上、書体を統一して、見た目を合わせるようにしました。そうすることで、やはり表面上ではありますが、何かのテーマを持った展覧会に見えると思ったのです。イラストレーションなどもその書体に合わせてまとめるようにしました。パソコンもここから使い始め、書体からサンプリングしてイラストレーションを起こしていたので、マーク的な絵はパソコンで作れるようになりました。この時、選んだ書体はエミグレのトリプレックスライトです。まだマックで使用できる書体の数は、オーソドックスな書体が、30書体ぐらいしかなく、その他の書体は、アメリカやイギリスなど5年ぐらい前からマックを使いこなしているところのデザイナーが作った新しい書体が、やはり30書体ぐらいしか、マックの中で使える書体はありませんでした。その中から、好きな書体を決めて、毎日のようにパソコン上で、切り貼りをしながら、文字組や文字をサンプリングしてイラストやマークを作っていました。

この展覧会で、書体を限定して表現していく手法に良い感触を得て、その後しばらくどんな仕事が来ても、このやり方でつくった企画を必ず1案は作って試していました。そこにこだわることで、根本的にきちんとひとつのモノ(やり方)を完璧に理解して、自分のモノ(自分のやり方)として作れるようになりたいと思ったのです。もともと仲條正義氏のもとで、デザインに惹かれたのもロゴマーク的なものだったことを考えると、書体にこだわったことは、僕にとっては当たり前の結果だったのです。

ひとつの書体にこだわる表現を2年、3年と続けていくなかで、自分なりの手法だと思えるモノが出来るようになり、この一連の仕事や作品で日本グラフィックデザイナー協会新人賞なども頂くことになりました。