半田也寸志「写真3・11 東日本大震災」
半田也寸志
第1回:2011年10月7日(金)〜10月30日(日)
第2回:2011年11月1日(火)〜11月27日(日)


この度@btf(中央区・勝どき)は
写真家 半田也寸志による「写真3・11 東日本大震災」を開催いたします。
会期中に展示作品の入れ替えを行います。
第1回、第2回は展示作品が異なります。

趣旨
2011年3月11日午後2時46分。 
発生直後からマグニチュード8・4という観測史上最大規模の数字が踊り、
各メディアの空撮映像等を通して見せつけられた津波の凄まじい破壊力。
その夜から翌日にかけて今度は市原市のガスタンクや気仙沼市の大火災、
そして福島原発の水素爆発等々、自然の猛威や人災を伝える映像が24時間、
ほぼ途切れる事なく流されていました。
以来、日を追う度に一桁単位で更新されて行く死者行方不明者数、
9・0というとてつもない数字のマグニチュードの訂正、
深刻さを増していく原発状況。
凄まじい震災が起ったのだと何となくは感じながらも、
その時は未だ撮影に行くほどの実感を伴ってはいませんでした。
しかし後日になって、
YOU-TUBEにアップされた或る被災者の方が携帯で撮ったビデオ映像が
私の心を強く突き動かしました。
そこには撮影者の家が津波によって押し流されていく様が、
彼の悲しくて切ない絶叫とともに克明に記録されていました。
それを見た時、2年前に他人の過失により私自身が被った火災を思い出したのです。
それは火を止めたくても絶叫するしかない自らの無力さとは裏腹に、増々勢いを増し、
濛々と黒煙を上げながら燃え盛って行く様を見せつけられた時の被災者のみが知るあの恐怖や、やりきれない絶望感でした。
同時に失意のどん底で道端に座り込むしかなかった私の所に集まってきては、
無意味な質問を投げかけ、無神経に携帯で惨状を撮り始める野次馬の事も思い出しました。
親切心からなのでしょうが、慰めを掛けられても答える気力さえ湧かなかった当時の自分、
そして後にその写真が面白半分のコメントとともにYOU-TUBEや面識も無い人のブログの餌食にされた時などは、
言いようのない腹立たしさに襲われたものです。
しかし、一方で撮影しておいて頂いて感謝した写真もありました。
それは、事後に原因となった事象が克明に記録された科捜研の方や友人が撮っておいてくれた現場のアップ写真。
その写真が後に加害者と裁判になった時、証拠としておおいに役立ったのです。
また私はメディアが被災地の惨状を伝える際に頻繁に使う「瓦礫」という言葉に違和感を抱いていました。
なぜなら、これらのもの全てが被災者の方々にとっては一点一点に思い入れのある大切な私有財産だったのだ、ということに、
もう少し神経を使っても良いのではないかと思ったからです。
以上の理由から被災地に行って写真を撮るべきか否かについて、暫く悩みましたが、
結局は当時世界最大の記録能力を有するカメラでこの被災地の現実を精緻に記録する事を決意しました。
被害の甚大さを細部まで伝える証拠写真を撮ることで、人々の心にこの災害を再び思い出させることが出来れば、
いつか必ず誰かの役に立つ。そしてそれが写真家の私にとって今出来ることの全てなのだと最終的には確信したからです。
3月末、政府が救援及び物資輸送の為に急追、修復確保した被災地へと唯一繋がる道、
即ち「櫛の歯作戦」によって開通した道路に一般車の乗り入れがようやく許可され、
また米軍が自衛隊との協力オペレーション「ともだち」によって遺体の集中捜索をしていた頃のことです。
気負って現地に赴いたものの、あまりの惨状にカメラを向けるどころか、暫くの間は呆然と立ち尽くす以外、何も出来ませんでした。
写真で見た事がある原爆投下後のヒロシマを思わせる様な辺り一帯の光景。異臭を放つヘドロ。
海や海産工場から打ち上げられた途方も無い量の魚類や人の遺体から発せられる死臭。
そしてそれらを貪る海鳥や鴉たちから発生する大量の糞。タンクから漏れ出した大量のガソリンや化学合成物。
備蓄してあった穀物や発酵食品。それらが全て堆積し混じりあって発生する例え様もない異臭。涙が溢れてきました。
ヘドロや二次災害防止に散布された石灰の粉塵が舞い上がる中、
大量の家屋のガラス片や釘によってタイヤがパンクしない様に神経を尖らせて進む道程。
追い打ちをかける季節外れの吹雪。持って行き場の無い怒りに一人、絶叫し続けていたと記憶しています。
やがて降っていた雪が止み、日射しを感じて、ふと空を仰ぎ見ると青空が大きく広がり始め、梅には花が付いていました。
遠くで聞こえるホトトギスの鳴き声。
天空に広がるいつもと変わらないのどかな自然に癒されて、やっと我に返ったのを思い出します。
以来、5月9日までの間に、何度か訪れ記録した釜石市、大船渡市、陸前高田市、
小白浜町、気仙沼市、女川町、南三陸町、石巻市、東松島市、奥松島市の当時の惨状がここにあります。
これらの写真が皆さんの心に記憶され、そしてその事が被災者の方々の復興に対して少しでも役立てられるのであれば幸いです。

                                                       半田也寸志

 


半田也寸志は常に直球を投げ掛けてくる。
僕が「流行通信」のアートディレクターをしていた頃だから35年は前に遡る。
スタジオなり、カメラマンの助手になるなりしたのが常道であるところ
彼は卒業すると共にプロになると断言していた。
作品は甲子園球児のような清々しい直球であった。 久し振りに会い、彼の投げ続けている球の速さに感動する。
重さが加わりメジャーリーグの投手が投げるコントロールの効いた「剛速球」となっていた。

                                                        長友啓典

 

レクイエム
巨大地震と津波が去ったあと、
海岸線の街区や集落は立入り禁止となった。
立入り禁止が解除された直後に、
半田也寸志はその地を訪れ被災地の写真を撮り続けた。
もとより生活基盤が失われた場所に、
長期滞在に必要な施設はない。水もない。
彼は寝袋に眠り、
二〜三泊すると東京へ帰るというトンボ帰りの日々を送って写真を撮り続けた。
きわめて高性能なデジタルカメラを三脚に取りつけ、
被災地の道端や海辺や丘に立てて、
風景が静物に見えるような早朝や夕刻の時刻を選んで、
精密画を描くつもりで一枚一枚のシャッターを押した。
「なにやってんだ、邪魔だよ」
報道陣のムービーカメラに追われながら。

自然は無情である。天の摂理のままに動く。
生ある生活の日々にも、すべてが破壊された日々にも。
空は朝日に輝き夕日に染まる。
雲は浮かび水はひかる。
半田也寸志に出来ることは、
ひたすらにシャッターを押すことだけだった。
深く心で祈りながら。
この写真展には、
生あるものに捧げるレクイエム(鎮魂歌)が流れている。

                                                      小野田隆雄

 


この生々しい惨状に胸が塞がるのですが、みな不思議に静かだ。
その膨大な数の写真の中で、ある画面に写っていた桜の花、
青く広がった空のことが、ずっと頭から離れません。

半田さんが撮らなかったら、これらの写真は残らなかった。
被災地に立ち、正視しようとしたその一直線な思いに心が打たれました。

                                                        葛西薫

 

写実と写真
写真というテクノロジーによる写実表現力を、
自身の眼と技術で誰にも頼らず証明するためには、
何を被写体とすべきだろうか。
半田也寸志は常に悩み、考え、試行を繰り返してきました。
雑誌などの出版物写真から広告写真へ、
そしてムービーへと表現方法を広げていく間も、
その姿勢が変わらないことを驚いています。
そして期せずして起こったのが東日本大震災でした。
マスメディアからプロ写真家、そしてアマチュアカメラマンまでが撮影した無数の写真が、
3月11日以来絶える事無く眼に入ってきています。
「写実の向こうの写実」への情熱を、
この悲惨な事実を残し伝えることへ注ぎ込むことが、
写真家として今与えられた運命であり義務であると確信し、
機材を抱え、アシスタントも連れず被災地へ向かい、
雰囲気に流されることを拒否する超高精度のデジタル機材により、
“そんな感じ”ではなく“そのもの”を写実する、
逃げ場のない撮影から生まれた写真をご覧いただき、
被災地への支援の継続の気持ちと、
写真の持つ力を再確認していいただければ幸いです。

                                                半田也寸志 友人 八木登

 


3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震により、
お亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りし、
ご遺族の皆さまにお悔やみを申し上げます。

また被災された皆さまに、一日でも早い復興、
そして安全安心で、平穏な生活が一日も早く送ることの出来るよう、
心からお見舞い申し上げます。

震災後、僕には何ができるのか考えつつ、被災地に伺うことはありませんでした。
何か明解な目的がないと伺うこと自体が、はばかれると思っていたからです。

半田さんの写真から観られる凄まじい風景。
正直、漠然と立ち尽くすしかないような無力さを感じました。
しかし同時に、半田さんには足下にも及びませんが、
何かしなければならないという思いが持ち上がり、
今回、展覧会を開催させて頂くこととなりました。

また震災から半年、
この問題に関する人々の関心が、だんだんと風化していかぬように、
継続的に支援していくことが、本当に大切であると感じることが出来ました。

最後になりますが、この場をかりて、
この展覧会を承諾していただけました、
半田さんと八木さんに、お礼申し上げます。

                                       バタフライ・ストローク・株式會社 青木克憲

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オープニングパーティー開催:10月7日(金)19:00〜21:00

このたび、展覧会の開催に合わせまして、オープニングレセプションを行います。
ご多忙とは存じますが、是非ご来場賜りたくご案内申し上げます。

たくさんのご来場ありがとうございました。


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世界的チェリスト、ヨーヨー・マ氏が主宰するシルクロード・プロジェクトから生まれた
驚異のアンサンブル ブルックリン・ライダーによる@btfでの演奏が決定
11月25日(金)19:00〜

被災地 気仙沼で演奏するために来日するブルックリン・ライダーと尺八奏者のKojiro Umezaki氏が
現在開催中の「半田也寸志 写真3・11 東日本大震災」展覧会場で演奏することになりました。
半田也寸志氏の写真と、ブルックリン・ライダー 尺八奏者のKojiro Umezaki氏の音楽が共鳴する世界が、
被災者の方々の復興に少しでも役立てられるのであれば幸いです。
MCには、半田也寸志氏と親交が深い、女優・シンガーソングライターの千葉美裸さんをお迎えいたします。

日時:11月25日(金) 19:00〜
会場: @btf 4A 地図 参加無料
演奏:ブルックリン・ライダー / Kojiro Umezaki(尺八)
MC:千葉美裸(女優・シンガーソングライター)

会場には募金箱を設置しております。
頂いた募金は日本赤十字社を通じて被災地の復興支援に役立てられます。
みなさまのご協力をお願いいたします。


ブルックリン・ライダー

ブルックリン・ライダー Brooklyn Rider

ジョニー・ガンデルスマン(ヴァイオリン)Johnny Gandelsman, violin
コリン・ジェイコブセン(ヴァイオリン)Colin Jacobsen, violin
ニコラス・コーズ(ヴィオラ)Nicholas Cords, viola
エリック・ジェイコブセン(チェロ)Eric Jacobsen, cello



 多面的な顔を持つブルックリン・ライダーは、その創造的なプログラミングとエキサイティングなコラボレーションで急速に知名度を上げている。また、ユニークで幅の広い音楽性と活動は、ヨーヨー・マが音楽監督として率いているシルクロード・アンサンブルで10年間活動を行ってきた成果でもある。
 コンサートではドビュッシー、バルトーク、ベートーヴェン、シューベルトなどクラシカルな作品も演奏するが、シルクロード・アンサンブルで長年共演してきた、イランが世界に誇るケマンチェの名手、ケイハン・カルホールや中国の天才的ピパ奏者、ウー・マンやアンサンブルでの盟友である、パーカッションのマーク・スーターやシェイン・シャナハンらも加えつつ、フィリップ・グラス、ゴリジョフ、リョーバ等現代の作曲家の作品を多く取り上げている。

 2008年に結成し今までに3枚のアルバムを発表している。1枚はシルクロード・アンサンブルのCDにも納められていた、ケイハンの筆になる名曲「サイレント・シティー」をこの編成に合わせ、よりクオリティの高いものに仕上げたものを中心にしたその名も「サイレント・シティ」、と数ヵ月後には、アンサンブルでも多く取り上げていた、アルメニアのフォーク・ソングなどジプシー音楽を中心にした「パスポート」。その中にはペルシャやジプシー音楽の広範な調査・研究をもとに、メンバーのヴァイオリニスト、コリン・ジェイコブセンによって新たに創作されたブルックレスカ(Brooklesca)も含まれている。本年には3作目の「ドミナント・カーヴ」を発表。ドビュッシー、ケイジなどクラシカルな作品を初めて取り上げている。

たくさんのご来場ありがとうございました。

 

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詳細は、「@btf」までご連絡ください。
ご連絡先:shop@btf.co.jp(03-5144-0330)※緊急な場合以外はメールにてのご連絡をお願いいたします。

会場 : @btf